昭和四十八年四月十二日 御理解第二十五節


「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」


 迷いが起こらぬんで済む信心。これを一言で申しますと、一切が神愛と分かることだと、一切が神愛だと。これ程大きな信心はなかろうと私は思う。
 ところが仲々それを本当に頂くとそれを本当にそう実感させて頂く。いや、その実感させて貰ったら、その実感が大きな信心だと仰るのですから、おおきなおかげにつながっていかなければ一切が神愛ですからと口で言うただけではいけない。
 本当に神愛を神愛として感じ、その神愛に対する信心。そこには、いわゆる感謝の心と云うかね、御礼の心、お詫びの心、願いの心と云う様なものがある訳ですけれども、一切が神愛であると分からせて頂く為の信心と云うか、内容と云うかそれをいよいよ絶対なものにしてゆくことの為に様々な信心をさせて貰う訳ですね。
 これはまあ、私が感じさせて貰う訳ですけれども、様々なことが有りました。けれどもそんなら、二十数年経ってみて振り返ってみますと、成程あれもおかげ、此もおかげ、一切が神愛であったと云うことがいよいよ感じられるのです。無駄と云うことが一つもない。 しかもあんな、ああ云うお祖末御無礼な時代があったけれども、けれどもお祖末御無礼の事柄が次の信心の飛躍を遂げておるところをみますとね、やっぱり神愛だったなあと云うことになるのです。
 私どもの心の中に善も有れば悪もある。云うならば是でもなからねば非でもないと云った様なね、後になって分からせて貰う。あれはよいとか悪いとか、こう言ってるけれども、後で考えてみると良いと思うておったことも、悪いと思うておったことも皆良いということになってきておる。
 善もなからなければ悪もない。あれもなければ吾もない。只々受けて受けて受け抜いて下さる神様の絶対愛。いわゆる神愛。
 その神愛の上に現れてくるところの活動、その働きを私共がどういう姿勢で受けて行くかと云うことです。
 昨日総代会で話が出たことですけれども、只有難い有難いと云うて、本当に有難いではない場合がある。例えば、損をする思いとか、又は痛い思いをするとかと、それも例えばそんなら神愛だと云うことは分かっておる。けれどもやはり、そこを私共叩かれておかげですよとこう、分かっておる様だけれども、その実は痛いを感じておるわけです。だからそこんところに、私共はお詫びと云う様なことになって來るのじゃないか。
 例えば火事で丸焼けになったと、おかげだと、ああおかげですよと。けれどもそこには沢山の損害が有ると同時に又神様のお預かりものであるところのそんなら、ものを灰にしてしまったと云う様な事ですから、やはりそのことに対してはお詫びが要る。
 お詫びが要ると同時に神愛に間違いないのですから、御礼を申し上げる心も要る。そういう様なものが私共の大きな信心の中身になって行かなければ、只絶対愛とか、一切が神愛だとかと、もう善もなからなければ悪もない。是も非もない。そういうものを一緒たくりに神様は受けて下さるのが天地の親神様だから、そういう心に私共がなると云うことが信心であり大きな信心だと思う。
 ところがそれがやはり、本当に実感として頂けれると云うことになると、ここに微妙なおかげだとか、有難いとか言ってるけれども、そこにスッキリしないものがある。
 それがそんなら、そうい大きな信心しとるのだから大きなおかげが受けられなければならんのだけれども、大きなおかげが受けられてないと云うところからみると、結局その内容がほんなものじゃないと云うことになってくる。
 御理解第四十五節に「世に三宝様踏むな。三宝様踏むと眼が潰れると云うが、三宝様は実る程屈む。人間は身代が出来たり、先生と云われる様になると頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳が付く程屈んで通れ・・・・」と云った様な御教えが有りますが、私はこの三宝様と云うことは、次に三宝様は実る程屈むと言っておられる。ですから、ここに注が入れてあります。三宝様の下に穀物の意と云う様な事が書いてある。云うならば穀物は私共のやはり命の糧になるものですから、やはり大事なもの。
 それを踏むと眼が潰れると云うがと云う風に教えておられるが、私は今日はお三宝を色々大中小御心眼に頂かせて頂いて、どういうことだろうかとこう思ったんですけれども、勿論お供えをする時使うもの、同時に御理解の中に、世に三宝様踏むなと云うこの三宝と云うことを使ってある事から、私気付かせて頂いたんですけれども、これは仏教では、三宝ということをもう大変な信心を進めて行く上の大切なものとして言うておりますが、教祖様もやっぱり仏様も拝まれ、神様も拝まれた時代が有るのですから、やっぱそういう思いもおありになってこの三宝様と云う風に表現しておられるのではなかろうかと私は思うのです。
 仏教では三宝と云うことを、仏、法、僧と云う風に申します。
 いわゆる仏と云うことは、仏を拝むと云うことである。
 法と云うことは、教えを聞くと云うことである
 僧と云うことは、人を大事にすると云うことである。いわば、お坊さんを大事にする。これは人間を大事にすると云う意味なんです。
 私、今日はそれをですね、この大きな信心と云うことに付いての、もう一言で云えば神愛だと、絶対愛と分からせて貰い、そしてこれは皆さんも体験でそれを感じられるが、私も二十数年の体験から云うてです、もう一切がおかげであると云うことを、起こって來る事柄は勿論ですけれども、自分の心に起きて來る悪とか善とかと思われる様なものですらもです、やはりおかげであるとして神様が受けて下さってある証拠に、それがおかげになっておると云う事実です。 ですからその内容が自分自身の場合、私の場合どうであったかと云うと、この三宝様を大事にしてきた様に思うです。これは穀物と云う意味でなく、仏教的に云うと仏法僧です。
 どんなにお祖末御無礼な時であっても、神様どんなにおかげを頂いておる時であっても、神様を疎かに拝むことを疎かにして来なかった。どんな場合であっても、教えを頂くと云うことを一つも疎かにして来なかった。どんな場合でも私にとっては親先生をいわば頂抜いてきた。
 これは今日、例えば合楽があると云うことも、私には善導寺の親先生がおられなかったら、今日の合楽はないとさえ思う位。
 何処の先生でもいけん。やっぱり荒巻先生でなからなければいけなかったと云う様に、仏、法、僧と云うそれを私は大事にしてきた。 そこで今日は皆さんにです、大きな信心とは一切が親愛だと云うことを分かることだけれども、それを実感として分かっとるから、もう拝まんでもええ、話を聞かんでもええ、自分だけよかりゃあええ、人を大事にしてやる必要はないと云った様なものが少しでもあってはいけない。
 ところがその大きな信心と云えば、大きな信心になる程、なんとはなしに信心がドライになる。割り切って神様を拝んでも神様はいつも自分と共にあって下さってあるのだから、教えでももうそんな教えは知っておる。又そんならその教えに依って次の新たな心境が開けて來ることが楽しみと云った様な信心をしない。先生の云われることがなんとはなしに軽う感じられる様になる。
 と云うと、そんなら仏教で云う一番大事な三宝と云う三つの宝と云うことが疎かになっておる。だからこれを教祖様も三宝様を踏むなと云うことは、三宝様を大事にせよと云うことですが、そんなら教祖の神様も仏教のそう云う様なことを知って言っておられたかどうか分からんけれども、やはり私はそれを今日はそんな風に感ずるです。だからその大きな信心の内容としてです、その仏宝僧と言うものを私共が内容として段々御理解を頂くことの楽しみとか、喜びと云うものは益々強うなってこなければいかんのだけれども、まあそういう事は知っておると云う感じが御理解が始まると眠くなるといった様なのはもう、仏宝の法というものを大事にしてない証拠です。
 そしたら神様は、吾と共にあるんだと云うてその拝むことにざーっとなる。そういう事を大きな信心の様な思い方をしておる。いわゆる信心が割り切ったドライな考え方、これでは仏宝僧の一番大事である仏と云うものを大事にしないことになるのであり、法を大事にしないのである。
 先生の言われることが、いわば軽う見える様になってきた時に、云うなら先生が拝めんと云うような事になってきた時に、僧と云うことの信心が欠げておることになる。
 ですから、この大きな信心の内容として私共が何時も心に掛けさせて頂かねばならないことは、果して仏の方はどうか、法の方はどうか、僧の方はどうか、この三つの宝と云うものが信心の中心をなす大事なものだと。
 今日私はそれを、それが大きな信心と云うのじゃなくて、大きな信心は大掴みにして一切が神愛だと分かること。だからその一切が神愛だと云う程しに分かる。大きな信心させて貰ったら絶対大きなおかげが伴わなければならない。
 為に、私共その内容としてです、仏法僧と云うことが大事にされておるかどうかと云うことを確かめてみなければいけない。
 拝むと云うことに一生懸命に拝ませて頂く、いわゆる法を頂く、いわゆる教えを頂くと云うことにいよいよ限りない求道の心と云うものが有るかどうか。同時にいわゆる、人間関係取分け金光教で云うならお取次を頂く先生がいよいよ拝めれる様になって行きよるかどうか。
 私はここで素晴らしい信心だと言われたり、まあ自他共に許しておる人達が、信心が非常に目が粗くなって疎かになってきておる事実をみる時です、そして一切が神愛だと、例えば分かっておってもです、もうお参りをするという事にね、疎かになってきたらもう仏ということをなくしておると同じ事ですよ。
 それからもう、親先生の言わっしゃることは、いつでん同じことと云った様な頂方をして、例えばそんならたまたま参って来たから御理解を頂いて帰るかと思うと、もう人がいくら頂きよっても、つーっと帰ると云った様な人達があるのは、もう仏法の法と云うものを頂く、教えを頂く喜びと云うものがもうなくなっておる証拠です。
 勿論そうですから、先生任せとか、親先生任せと言いよったけれども、任せる心などはもうさらさらない。自分の生き方でいこうと云う様な人達がそういう風になっていくと云う事実をです、私は直視しますとね、本当に教導の大事なことが分かると同時に、教導が不徹底だなあと自分で思うです。
 もう本当にこれは,仏教だけの事ではない。三宝と云うことを大事にすると云うこと。これが信心の中心だと仏教で言われる様に、これはお道の信心だって同じ様な事が言えれるんだとこう思うのです。
 それをあらゆる角度から、あらゆる表現をもってしておるのですけれども、今日は大きな信心とは、神の絶対愛を信ずる、神愛だと分かる。そして自分の体験から云うてもです、本当にあれもおかげであった、此もおかげであったと云う事が分かる。
 これはもう私自身、もう本当に一切が神愛だと云うことを実感する。だからもうそれでよいかと云うと、私の心に中にはそれでも尚且つ拝まなければおられん、法は頂いても頂いても限りが無いもの。僧のところ、親先生あっての今日私があるんだと云う頂き方のこの思いと云うものはいよいよ募って來る。
 例えばそんなら、私と親教会と云うのは、よし私がたとえどんなに、そんなら御用が出来たに致しましても、それは只利払いにしかすぎない。しかも何十年払ったからそれでもう元金の方も済んでいきよると云うことは決してない。もうどれだけの事をさせて頂いても、それは利払いだと私は思っている。
 だから合楽が有る限り、善導寺の教会が有る限りこれはもう終りと云うものは無い。善導寺の親教会のおかげで合楽があるんだと云う思い、これを今日私は僧と云う風に聞いて頂いた。
 教えと云うものは、もうこれだけ知ったから、これだけ詳しくなったからこれでよいと云う様な時には、もう既にそれは一切が神愛だと分かっておっても、もう内容の無い只分かっておると云うことだけですから、それでは本当の大きなおかげが伴うてくる筈はないと云うことを聞いて頂いた。
 だから仏教で云うところの三宝様の三宝を大事にする。その三宝とは仏法僧と云うこと。
 仏と云うことは、神様をやはり拝んだ上にも拝まなければおられない心。
 法と云うのは、教えはもう限りなく求道してゆかなければならんのであり、求めた上にも求めて行かなければならないものである。
 とどうじに、僧を大事にしていくと云う。仏法僧と云うものがです、私共の内容として育って行きながら、一切が神愛と分かったところにそれは本当の、云うなら信心が出来ていきよると云うことになるじゃないだろうか。
 皆さんの先輩と云うか、あの人の信心はと、こう思っておった人達がです、もう第一ね、お参りがいわばポツンポツンと云うことになてきた時にはもうおかしいです。
 教えを頂くことに限りない有難さを感じられん様になったら、もう貴方の信心はどうもおかしい。
 いわば金光様が拝めん様になる。親先生が拝めん様になったと云う時には、もう例えば拝めんでもええ、けれどもそれを拝もうと一生懸命努めておる時なら大丈夫。一生懸命教えを頂こうと云う精神がある時なら大丈夫。一生懸命拝ませて貰ってる時なら大丈夫。
 そういう信心がいよいよ絶対愛と云う体験が生まれて來る。
 だからいつも三身一体と云うことを申しますが、お道の信心はそういうこれはお道の信心に限らず、仏教でもそう説いてありますが、この仏法僧が内容として出来てくる信心を三味一体の信心が出来て來ると、そういう信心が内容として一切が神愛と分からせて貰った時が本当なもの。
 神愛と云うことが分かっておる。一切がおかげと云うことが分かっておる。それでいてその仏法僧と云う無い長がなくなっていっておったら、もうそれは大きな信心の様であって、それは実は大きなおかげの伴うところの信心ではないと云うことを聞いて頂いた訳ですね。どうぞ。